寒くなってきたので、一つ。
突くような痛みが喉を襲った。この痛みは嫌という程に味わった覚えがある。叫び枯らしたような、嗚咽さえ出なくなった喉、だ。もう今は泣いていないのに。
僕はもう昔と違う。泣くことしかできなかった僕じゃない。強くなったはずだ。強くなったんだ。称号も立場も手に入れた。
今もまだ全く変わらない弱い心が叫び疲れたらしい。
「起きろよ、雪男」
そんな声をかけられて意識は現実に舞い戻った。開いた目の前は真っ暗で、布団の中に潜り込んでしまっていたのだと理解した。それにしても暗いから、まだきっと夜中だろう。それに、兄さんより僕の方が朝寝坊なんてあり得ない。
なんなの、と言おうとして声が出ない事に気付いた。言葉が喉に詰まってでてこない。あれ、なんで。
「雪男、うなされてたけど、大丈夫か?」
普段より幾分優しそうな声がする。僕がこれを心地よいと思ってしまうのは幼少の頃の記憶のせいだ。嫌いなのに。
無理矢理息を吐き出して、それ以上に目尻に溜まったものの存在を認識して、自分でも何が何だか分からなくなった。
「…っ、は」
「雪男!」
無理矢理布団を剥がれる。こうなった兄さんは僕の腕だけでどうかできるレベルを越えている。
「嫌だ、にいさんっ」
こんな歳にもなって泣いている姿なんて格好悪い。それも大した理由もなく。馬鹿だ。そんな姿、兄さんには見られたくない。強い、兄さんだけには見られたくない。
必死に泣き顔を見られまいと顔を逸らした。枕に小さな染みができた。
兄さんは悪魔だ。どうも普通の人間より夜目は効くらしく、暗がりでバレない、という甘い考えは通用しなかった。視線が合った瞬間、兄さんの動きが止まる。手首を掴まれた手が痛い。
「な…に、泣いてんだよ」
「…なんでもない…から」
無駄な抵抗を緩めると、どうやら涙腺も一緒に緩んだらしい。意味の分からない冷ややかな涙が溢れだす。
「なんもなくて泣くのかよ」
歪んだ視界で、兄さんも泣きそうな顔をしていた。むかしからそう、夜中に僕が独りで泣いていると、まるでにいさんも、なきそうなかおをしてなぐさめる。
痛い。ごめんなさい、兄さん。
悔しくて泣くのだ。痛くて、もしくは悲しくて、そう泣いた事は殆どない。
泣き虫の僕はもういない。悔しさはバネにできる。トリガーを引けばいい。その分、理想の僕は、兄さんを守る強さを持った僕は成長できるから。それなのに最近また泣き虫が顔を出しては、別の感
情が蝕んでいく。
「…っ、いい、でしょ…」
「ダメだ」
絞り出した一言を一瞬で切り捨てられて、幾分か腹がたった。
頭上にまとめられた手首がじんじんする。暴れないようになのか、兄さんは自分の脚で僕のまでしっかり抑えていた。見事に身動きが取れない。
「に…さん、はなして」
そう言うと、更に手首に痛みが走った。この馬鹿力。
「嫌だ」
「なんで、」
「まだ離さねえよ」
どうやら何かと理由が必要なのだろう。梃子でも動かない、そんな雰囲気だ。
顔を覗き込まれると、触れる鼻先。近い。別の意味で顔に熱が上がる。
「――っ!は…ずかし…これ」
ああ今顔真っ赤だろうな。ぼんやり惚けた頭で兄さんの表情を視界の端で捉えた。
一層力が込められる右手。
「くっそ、」
兄さんの左手が僕の唇をなぞる。何度も味わった感覚も未だ慣れない、心臓が悲鳴を上げる。息が吸えない。
挙句口内の酸素まで全部持っていかれて、卑猥な水音が脊髄にまで響いた。羞恥で死にそうだ。酸欠の頭が考える事を放棄した。
両腕の抵抗する力を抜けば、兄さんの僕を押さえつけようとしている力も抜けた。手首をなぞる指に背筋が反った。
「…バカ兄さん」
「おまっ、兄に向かってバカとはなんだ!」
いつものような張った声は出なかった。
「ほん…っと、ばか…」
視界が暗くなって、抱きしめられたのだとわかったのは、鼻孔をくすぐる美味しそうな匂いがしたからだ。
少し、明日の弁当の中身はなんだろう、と考えた。ほんのり戻ってきた睡魔は思考を鈍らすには丁度良くて心地よい。
背中に腕を回して、ゆっくり息を吸った。
『夢を、みてた。』
あれは夢だったのだろうか、もしかしたら過去かもしれない。
「どんな?」
「なんだろう、はっきりは覚えてないなあ。ああでもきっと、昔の夢だ」
ただ僕は泣いていた。泣くしかできなかった。無力で弱虫で、兄さんに頼ってばかりで。どこかでそれが許されると思っていた。僕はただの人間なんだ、兄さんとは違うんだ、って。
でも大嫌いだった、悔しかった。兄との相違点を見つける度に僕が孤独になった。
大好きだった。幼心なりに愛しかった。まだあの頃は罪悪感なんて持ち合わせずに、ただひたすらに好きだった。
「寂しかったんだ、きっと」
淡々と言葉はこぼれ出た。
繋ぎ止める術がない事。その力すら持っていなかった事。兄さんしかない。弱い僕。いつまで経っても変われないそれに甘い言葉が重なれば、それもそれでいいのではないか、と思ってしまう。なんて不埒な妄想。
悔しいよりもっと、最近はもっと、兄さんがいなければずっと。寂しいなんて感情、どこからきたんだろう。こんなにも痛くて、暖かい。
兄さんがようやく腕をほどいた。残る物理的な暖かさが妙に寂しい。
「今はどうなんだよ」
不安そうな瞳が俺を覗いた。目はもう暗さに慣れていたし、この至近距離なら眼鏡がなくても認識できた。僕のそれより空の色に近い、瞳。
「兄さんがここにいるから」
大丈夫。
そう声に出すのは無粋な気がして、代わりに口角を少し上げた。上手く笑えたか分からない。
兄さんは少しだけ悲しそうな顔をして、また腕を僕の背中に回した。冬の真夜中、それは何よりも暖かかった。
泣き枯れそうな喉は必ずといっていい程、彼を求めた。断ち切ろうにも、無理だったんだ、悔しいけれど。全てだったんだ。兄さんが、全てなんだ。僕には。
僕より兄さんの方が知っている、僕の気持ち。
ぼんやりと考えていると、首筋を暖かな息が撫でた。身長だけはもう成人と変わらない二人がシングルベッドにひしめくのは滑稽で些か無理があるように思うけれど、今日くらいいいだろう。笑みがこぼれた。
僕はそのまま意識を、今度は兄さんのいる夢へと堕とした。